2007年5月21日月曜日

コンニチワ ハポン アシミネ(安次嶺)ボリビア駐日大使 インタビュー

安次嶺ボリビア駐日大使
2007525日、ボリビア大使館にて)

ハイメ・マサカツ・オオシロ・デ・アシミネ(安次嶺) 
ボリビア駐日大使


インタビュアー・永田佳之代表+速記安藤二葉

代表 はじめまして。アシミネ大使、ご着任おめでとうございます。識字、特にボリビアの女性たちの社会的地位の向上のお手伝いをさせて頂いております、私たち「ボリビア学び舎づくりの会」も発足して9年になります。アシミネ大使は日系でもあり、日本においてボリビア共和国の実状をもっと知ってもらうためにも、また、私たちの会がボリビアとこれまで以上に結びつきを深めていくうえでも、大変よい機会であると思っています。

アナ・マリア・パチェコ・メルカード(在日ボリビア大使館一等書記官・領事担当)  大使のご発言の前に恐縮ですが、私から一言、言葉を添えさせていただきます。
 まず、これまでわがボリビア共和国への協力・識字活動を展開して下さっている「学び舎づくりの会」の方々に、ボリビア大使館員として心からの謝意を表明させて頂きます。
 会の皆様の協力によって出来あがった4棟の「学び舎」で現在、ボリビアの女性たちが生活向上をめざし、文字を学び、貧しい村での生活手段を互いに話し合い、学び合い、連帯することができるようになっていることを知り、ボリビアの女性である私は大変嬉しく思っております。ボリビアの女性たちは昔から無学のまま虐げられてきたという、悲しい現実がありますが、その状態から自身の力で連帯し合って生活できるようになることを期待しております。
 特に、こうした有意義な協力活動が、政府間の外交ルートだけではなく、皆様のような市民レベルでボリビアと日本とが相互に理解しあって協調し、友好を深め合えることができた点が、素晴らしいことだと思います。これからも、こうした相互協力活動の輪をボリビア共和国と日本の両国で広げられるよう、領事部としても皆様の活動に協力して参る所存です。
代表 ありがとうございます。私たちの活動を評価して下さり、感謝申し上げますとともに、これからの会の歩みにとっても心強いお話を頂きうれしく思っております。
 アシミネ大使、今日は公的なことから私的なことまで、話題が多岐にわたりますが宜しくお願い致します。
 最初に、ボリビアに左派のエヴォ・モラレス新大統領が誕生したことで、日本のマスコミがボリビアに注目しています。まだ就任してそれほど日がたってはおりませんが、実際にボリビアではどのような変化がおこった、おこっているのでしょうか?
大使 大統領が代わっても、大きな変化はみられません。ただ、経済が動き出した感があります。
代表 今回は駐日大使としての来日ですが、これまで来日の経験はおありですか?
大使 日本を訪れるのは今回が初めてです。日本は私の両親の国であり、駐日ボリビア大使に就任したことで、日系人としても責任の重さを感じています。
代表 いろいろと思うことも多々あろうかとぞんじます。4月末に沖縄を訪れ、5月2日には大変な歓迎を受けられたようですね。ところで、大使に任命された経緯は?
大使 かつてはいわゆるコネがないと政府要人にはなれなかったということもあったようですが、新大統領のもとでは、ボリビア市民の誰もが応募でき、面接試験をへて議会の承認を得れば、就任することが出来るようになりました。そうですね、この点は新大統領の下での大きな変化と言えます。
代表 大使はこれまでどのようなことをご専門にしてきたのですか? 宜しければ、以前のご職業などもお聞かせ下さい。
大使 オルーロ工科大学卒業後、ボリビア・トヨタ社で自動車整備技師として勤めていました。
代表 日本にいらして最初にお感じになられたことはどんなことでしょう?
大使 日本は何から何までとても整備されていることに驚いています。治安についても安全ですし、また特に交通網がきわめて整備されています。たとえば、電車など、数分でも遅れるとスミマセンというアナウンスがあります。ゴミの問題でも、細かな分別収集がいきとどいています。もちろん、日本は、特に東京はせわしく慌ただしいとの感じもしますが、しかしそれは活気に溢れていることにもなります。「良い事に慣れるのには苦労がない」との格言がありますが、本当に来日して困ったり不自由を覚えたりすることはありません。
代表 大使は単身赴任とのことですが、宜しければご家族についてお聞かせ下さい。
大使 子どもは3人おります。長女が14歳、長男が10歳、そして6歳の次女です。この6月に来日の予定です。
代表 この大使館の近くにはインターナショナル・スクールがいくつかありますが、大使は日本でのお子さんの教育についてどのようにお考えですか?
大使 なるべく日本の一般の学校に通ってほしい。日本で、日本の普通の子どものように教育を受けさせたいと思っています。日本の文化を知って欲しいですね。
代表 ボリビアの教育問題についてお考えをお聞かせ下さい。
大使 都市部での教育に関してはあまり問題がないのですが、地方(田舎)では義務教育制度があっても多くの子どもたちが小学校に1年ほど通うと学校に行かなくなる、という問題があります。田舎では学校の数が少なく、離れた村の子どもたちが長い距離を歩いて通うので、大変です。このような問題をなくすには、もっと学校の数を増やすことが必要です。そして全寮制の学校を建てていくことが重要です。月曜日から金曜日まで寄宿舎で過ごし、土・日は家に帰れるような全寮制(寄宿舎)の学校があれば、僻地の子どもたちにも教育が行きわたります。また、給食を通じて児童の栄養状態も改善されれば、子どもたちの健康状態の向上にもつながります。
代表 私たちの会は、思いはあってもそれだけでは何ともしがたいボリビアの地域の人たちの識字運動を支援することを目的としてきました。ボリビア大使として私たちの会のようなNGO組織に対して、どのような期待をお持ちでしょうか? 
大使 そうですね JICAのボリビアへの支援については、これまで日系移民を対象とした協力支援が中心となっていたという感があります。今後はJICAもNGOも、アンデス高地やアマゾンなどの不便な地域への教育の支援をより充実させて欲しいです。
 私が考えている教育とは、単に読み書きができるというのではなく、もっと総合的な意味での教育です。不便な地域に生活する住民の栄養面での指導、また村々にある 「母親の会(婦人会)」 などを通じての女性たちの職業訓練――裁縫や農業、栄養学、衛生的な生活をめざした総合的な教育研修プログラムへの協力を期待しています。
代表 「学び舎づくりの会」も識字教育の場を造ることを通じて、常に現地の人々と交流することで地域住民のニーズを理解し、その土地の文化、伝統、習慣を重視し、また地域の自然環境を調査した上で、住民を主体とした相互扶助という形での学び舎づくりを行なってきました。そこでは、各々の村の土を使って日干し煉瓦作りからはじめ、建設工法を模索しながら活動してきたわけです。
 日系人である大使としては、これから日本の市民と日系人との交流をどのように進めていかれるお考えでしょうか?
大使 私の両親がボリビアへ移住し、私自身はボリビア人ですが、親類たちは沖縄で暮しておりますので、来日した後、親類たちを訪問し、また沖縄の方たちと広く交流し、沖縄県知事を表敬訪問しました。沖縄側でも在日大使館初の日系人の大使就任を祝って下さり、「琉球新聞」「沖縄タイムス」等の新聞が私の記事を載せて下さいました。
 また私の弟も現在、日本で生活し、岡山県で勤めていますので、このGWの休みに弟に会いに行ってきました。岡山でもたくさんの人々と広く交流しました。学び舎づくりの会もボリビアで両国の市民交流を行なっておられますが、同じように、私はボリビアと日本、この両国の掛け橋となるよう頑張っていくつもりです。
代表 ご両親が沖縄出身とのことですが、移住先はサンタクルス州のどちらですか?
大使 オキナワ・コロニーで生れ育ちました。オキナワ・コロニーは戦後、米軍が基地を建設するために沖縄の土地を接収し、基地予定地に生活していた住民たちを退去させ、住民たちはボリビアへ移住することになった経緯があります。
 沖縄移民にはまずサンタクルスのウルマテという土地が与えられたのですが、そこは病気が蔓延する不適地でしたので、パロメティア地区に移動させられました。しかしそこは農地としては土地が狭かったので再度移動を余儀なくさせられ、三度目に現在の土地に移住し、オキナワ・コロニーを築くことになりました。その場所もジャングルで、開拓することがきわめて困難な地域で、当初は皆移住者は大変な苦労を強いられました。
 私はそこで育ち、先ほど申し上げましたようにオルーロ工科大学で機械工学を専攻しました。当時の仲間で現在は冶金鉱山・鉱工業大臣になっている者がいます。
代表 私たちの会のメンバーをはじめ日本ではチェ・ゲバラのファンが多いのですが、ゲバラについてはどのような想いをお持ちですか?
大使 ゲバラと共に最後まで行動を共にした日系人のフレディ・前村※についての書籍が最近ボリビアで出版されましたので、ご紹介いたします。著者はフレディの甥であるエクトル・ソラレス・前村で、ボリビアで出版されたばかりですので、日本の方々にもそうした日系人がいたことを知っていただきたいと願って持参しました。
代表 ところで、大使のご趣味は?
大使 そうですね、釣りが趣味です。川釣りをします。
代表 どのような魚が釣れるのですか? マス釣りですか? 
大使 マスは湖に生息していますから、川釣りは主に鯰の種類ですね。ピラニアも釣りますが、白身でとても美味しいので、我々日系人は刺身にして食べてますよ。
代表 最後に日本の市民へのメッセージをお願い致します。
大使 ボリビアと言いますと、皆さんはまずアンデス高地の光景をイメージなさいますが、ボリビアはそうのような高山地域ばかりではなく、サンタクルスのような亜熱帯地域からより温暖な丘陵地域のタリハ、また乾燥した高原地域、等々ときわめて多様な地域と自然があります。
 また文化面でも同様にアンデス高原文化としてティワナクの遺跡がある他、最近ではジャングル地域からも「モホス遺跡」が発掘され、今まで知られていなかったアマゾンのジャングル地帯でも古代文明が栄えていたことが調査されるようになっています。この「モホス遺跡」については、NHKTVが3月5日(月)に「古代文明発掘ミステリー」として放映しましたので、そのビデオをお貸ししましょう。皆さんでぜひ見てください。
代表 お忙しい中、お時間をお割き下さいまして、ありがとうございました。私たちの会も日本とボリビア両国のかけ橋としてこれまで以上に努力していきたいと思っています。6月16日の「ボリビア祭り」でお待ちいたしております。

※フレディ前村の父アントニオ・前村・オオハラは、鹿児島県人のペルーから流れたボリビア移住者だったようです。ベニ州のトリシダで食料雑貨店を開いていましたが、ボリビア女性と結婚して1941年にフレディが生まれます。フレディは中学時代から政治運動に参加、ボリビア共産党に入党しました。大学は医学部に入りキューバに留学しました。
 キューバ滞在中に革命思想とゲリラ教育を受けたのでしょう、ボリビアへの帰国はゲリラとしてでした。 当時のボリビアは、大土地所有者が政治を独占している貧富の差の激しい国でした。南米の中でも最貧国で、クーデターが相次ぐ政情でした。ゲバラは、この国で革命を成功させたいと思い、ジャングルにゲリラ部隊を組織しました。その8ヵ月後、ゲバラの隊は苦戦していました。ボリビア政府にはアメリカCIAがついていたのです。熱帯雨林から谷奥深くに追い込まれたゲバラは、隊を2つに分けます。ゲバラ本隊とホアキン別働隊。このホアキン隊10人にフレディは属していました。
 1967年8月31日、待ち構えていた政府軍のわなにかかり、川を渡河中に銃撃を受けました。フレディは、昏倒したままリオ・グランデ川を流され下流で打ち上げられたものの、捕虜となりました。腕を叩き潰されるなど拷問を受けましたが、口を割りません。ついに頭部を銃弾が打ち抜きました。25歳でした。それから約1ヵ月後、ゲバラも捕虜となり銃殺されます。(「知られざる探検家列伝 (21)ゲバラとともに戦った日系人」http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-21.htmlより)
(文責・会報編集部)