2003年9月16日火曜日

イベント情報 第2回報告会:南米ボリビアで土の学校を造る―世界一空に近い村での学び舎建設―



 2003年9月27日(土)  イベント盛りだくさん!!! ふるってご参加ください。

●14:30~16:30 
第2回報告会:南米ボリビアで土の学校を造る―世界一空に近い村での学び舎建設―
 資料代800円 於:立教大学5号館2F5221教室(池袋駅西口) 帰国した高橋さんの報告を中心に学び舎建設を考えます。

●19:00~ もっと知って!ボリビア 花のえんトークライブNo5  
ボリビア料理を食べながら、ボリビアについてお話しましょう。
  ゲスト・ボリビア生まれの日系二世 Yさん
       ・Yマリアさん(Yさんの妻)  
       ・高橋さん(2002年度現地駐在員)

 要予約 参加費3000円(ボリビア料理5品と1ドリンク付き) 
 於:花のえん

事務局だより  2003年9月

 いつも学び舎づくりの会をご支援いただきまして、ありがとうございます。
 コチ・バケリーヤ村に3棟目の「学び舎」が完成し、私たちは、4棟目の「学び舎」の創設に着手することになりました。4棟目は、コチ・バケリーヤ村よりも高度の高い海抜約4000mに位置するリャイタニ村で建設する予定となっています。4棟目も、これまでと同様、ボリビアと日本、地元住民と学び舎づくりの会のメンバーとが協働で、知恵と力を出し合って、建設をすすめていきたいと思います。

2棟目利用状況 学び舎の一室に病院(内科・歯科)開業!!  2003年8月30日現在

 7月より自治会とオルテンシアさん(学び舎運営委員会)の許可を得て、賃貸料無料で病院が開業。 各先生ともシウダ在住の28歳ぐらいの女性。シウダの住民のほか、さらに遠くTAQUINA、MoreMoreなどからも住民が治療に来る。(この周りには市内かティキパヤまでいかないと病院がない。) 
 ただし、治療費、薬を払えない住民が多いので、現在キャンペーン中として診療は無料で提供している。ただずっと無料では、医者たちが生きていけない。現在あらゆる機関に助成を申請している。

1棟目利用状況―軌道に乗り始めた学び舎使用―   2003年6月17日・8月30日現在

<定期使用>

引渡し式を終えて  ロマン出合美樹

 秋晴れのような真っ青な冬空のもと引渡し式は、午後2時半ごろ始まりました。
 前の晩朝方の2時まで、そして、その日も私たちが到着する直前まで、高橋さん、サンチアゴ、フェリックスさんは仕上げ作業にがんばっていましたが、無事に立派なユーヤイワーシ(学び舎)を村の人々に引き渡す事ができました。
 外はとても寒く、寒さで頭が痛くなるほど冷たい環境のなか、それぞれの挨拶が終わり、サンポーニャと太鼓のリズムで、高橋さん、落合裕梨さん、市長さん、教育長さん等が村人に誘われ、楽しそうに踊り始めました。その後、手作りのスープとジャガイモと肉(羊かな、豚だったかな?)の煮物をご馳走になりました。
 普段引込み思案の村の女性や子ども達も、とてもうれしそうに話しかけてくれたり(ケチュア語で)、前回見かけなかった村の長老がちらほら出席して話しかけてくれたり、本当に皆、うれしさを隠しきれない様子でした、特に、無口な皆さんがあれだけ顔を崩して喜んでいるのを見たのは印象的でした。

 暗くなると、明かりが灯され、8時になっても、9時になっても、帰る直前の10時になっても、ほとんどの人が、帰ろうとしませんでした。自分の家よりも暖かいので、ここから出られなくなっちゃったと言って、ある女性グループは、裕梨さんを囲んで冗談をかわしていました、裕梨さんを喜んで受け入れて下さっているのを見て安心しました。
 日本で支えて下さっている皆様にこの笑顔、喜びを直接伝える事ができないのが残念に思いました。でも、本当に苦労したのは、やはり高橋さんや、佐藤さん、裕梨さんや住民の人々だと痛感しました。 私など、たったの一日いただけで 寒くて、息苦しくて、トイレもなくて、行き返りは車に乗せていただいたにもかかわらず、とても疲れて帰りました。 これこそ根性と体力がないとできない仕事だと思い、高橋さんがとてもまぶしくみえました。 
 日本の皆様も含めて、とても、とても すばらしいボランティアをしていらっしゃると思いました。
 今は、知識力も、経済力もない私ですが、これからも、できる範囲内で 協力させていただきたいと思います。
 皆様ごくろうさまでした、そして、有難うございました。
(スペイン語通訳)

※リャイタニ村は、富士山より高い3900Mの高地にあります。空気もうすく、低地にいる人にとっては高山病になりやすい土地です。コチャバンバ市街からでも、その差は約1000M。身体が容易には順応せず、頭痛や息苦しさを感じることがあります。

2003年9月15日月曜日

コラム  ボリビア 沖縄村学校の初期

 ボリビア国東部,サンタクルス州に沖縄農業移民の第一陣(1954年)が入植し始めてから10年程経った時期、移住地では、どの家庭でも、子どもが多く生まれ、兄弟5~6人は普通であった。第一沖縄移住地では、カトリック教会とメトジスタ教会(プロテスタント)が主体となった小・中校制学校が2校あった。カトリック校ではアメリカ人の神父さん、日本から来たシスターさん、メトジスタ校では日本から来た牧師先生夫婦がいらして生徒は99%(250人はいたと記憶する)ウチナンチュ-。日本の国語と算数教科書が使用され、スペイン語は外国語科目のようだった。男子生徒同士の喧嘩は日常茶飯で番長格の者が仕切って、決められたルールあり、大事には至らない程度で収まり、一番のアトラクションだった。上級生の間ではウチナーグチ(沖縄の言葉)が主流だった。基礎教育の中でスペイン語が本格的に取り入れられたのは、1968年に、ボリビア文部省から教師が派遣されるようになってからである。その頃は、日本語、ウチナーグチ、スペイン語、どれもこれも中途半端だったような気がする。しかし、そのような環境があったからこそ、現在、スペイン語を流暢に話せ、日本語、ウチナーグチもある程度話せるのではないかと思う。
(山城)

  

ケチュア語  レッスン1

ボリビアでケチュア語を話すのは、主にスクレ・ポトシ・コチャバンバの3州。場所によって少しずつ違いはあるようです。

お元気ですか?
→Imaynalla kasanki?    (イマイナリャ カシャンキ)

はい 元気です!
→Waleqlla (ワレ(ク)ヒヤ)


お名前は?
→Ima sutiyki? (イマスティキ)

私の名前は○○です。
→Noqa sutini  ○○            (ノカ スティニ ○○)



どこから来たのですか?
→Maymanta jamunki?   (マイマンタ ハムンキ)

日本からきました。
→Japonmanta jamuni    (ハポンマンタ ハムニ)





ケチュアの人々のある一日    

 都市の人々がさまざまな民族から構成されている一方で、コチ・バケリーヤ村に住んでいる人々は、インディオと呼ばれる民族の中でもケチュア語を話す人々。その村に住むある家族のある一日の生活の様子を今回は紹介したい。

3棟目 建設過程

写真で建設の様子を見てみましょう

3棟目引渡し式にて ―これまでをふりかえって

 2002年10月に、代表の永田さん、落合裕梨さん(2003年7月現在、現地駐在員)、そして通訳の出合さんとともに、約10カ村近くの村の調査を行い、このコチ・バケリーヤ村に3棟目の学び舎を建設することを決定しました。そして整地および日干し煉瓦づくりの指示を行いましたが、心の中では今までの1棟目、2棟目の経験上、本当に12月に再度訪れる時までに「整地、日干し煉瓦づくりを終えているのであろうか?」という不安、また、電気・電話・村までの交通手段のない村で自分は生活が出来るのであろうかという不安を抱えながら村を離れました。
 そして再度、高校を卒業して間もない田中君と共に12月にこの村を訪れた際には、傾斜地の整地がほぼ終了していたのでほっとしました。しかし、それ以降は、自分にとって、そして親方サンティアゴにとっては至難の連続でした。

第3棟目 完成報告        代表 永田佳之

 7月5日、コチバケリーヤ村に3棟目の学び舎が落成しました。街からさほど遠くない地域で造られた1棟目および2棟目とは異なり、4千メートル近いアンデスの小村に建てられた3棟目が完成するまでの道のりはこれまでの学び舎建設にもまして険しかったといえます。