2008年3月12日水曜日

聖マルティンの家〉野原昭子さん 帰国報告会 ―― 聞き手 高山和彦(同愛会理事長) 

 2008年3月12日水曜日、夕刻6時30分から、横浜JICAにて野原昭子さんの帰国報告会を行いました。報告会に先立ち安藤メンバーの尽力で、福岡から上京したエルピス会の2人も加わり、野原さんは安次嶺正勝ボリビア大使と面談しました。
 報告会は会のメンバーでもある浅田さん他5名が民族衣装をまといロスカスアロスに変身、フォルクローレの演奏により和やかな雰囲気で始まりました。聞き手は、同愛会理事長高山和彦さん。お忙しいところご都合をつけていただきました。参加人員は約40名。多忙でしばらく姿を見せていなかった杉原メンバーもかけつけ事務局全員集合。以下はその対談報告です。(長いです)


学び舎づくりの会代表・永田佳之:今日はお忙しい中、遠いところからおいでくださりありがとうございます。始めに、学び舎づくりの会の簡単な説明をさせていただきます。
 10年前に会はボリビアのコチャバンバで始まりました。当時、私は教育の調査でボリビアに行っていたのですが、強い日差しの下で風に吹かれながら、時には雨に打たれながら、青空教室の下で学び続けていた女性との出会いがあります。そこで80歳近いおばあさんに足を捕まれ、“学校をくれ”というふうに言われまして、それがすべての始まりだと思ってます。“研究者ですので、学校はとても建てることができません”そういうふうに言って帰ってきたのですが、その捕まれた感触、そのご婦人の表情をどうしても忘れることができず、周りに相談したわけです。木材の一つも買えないんだったら、村には土がある。その土で学校を作ろうと一歩を踏み出したのです。
 なんだかんだ6年ぐらいで2500mぐらいのコチャバンバと4000メートル以上のアンデス山脈のコースに4棟の学び舎を作りました。作り続けているとさすがに疲れてきまして、振り返りましょうということになりました。どういうふうに学び舎を作っていったらいいのか、使ってもらったらいいのか、いろいろなソフト面を考え始めました。
 それまでにいろんな方との出会いがありました。ボリビアの現地の若者たち、職人さんたち、また日系の方々との出会いがありました。その出会いの中でも、最も印象に残っているのは、野原さんとの出会いです。
 もう数年前になりますが、私自身は2年ちょっと前に、現地で野原さんが営まれている施設を見させていただいて、障害者の方たちとも触れ合わせていただき、非常に感銘を受けました。そして野原さんが帰国される度にお会いしていろいろなお話を聞き、なんとかシェアしたいという思いを強くしてきたのです。
 昨年9月にTBSで野原さんの活動が紹介されまして、全国から多くの問い合わせが来ました。我々のほうは細々とやっていますので、大きな影響はなく電話をとったりメールに返事をするぐらいでしたが、エルピス会という野原さんを支援されている会へは問い合わせが殺到し、対応が大変だったことと思います。今日初めてお会いしてお話を聞いたのですが、本当に全国の方々の善意、お金の意義・重たさを感じているということでした。例えば、退職された方でしょうか、ずっと旅行をしたいと貯めていたお金を野原さんの方で使っていただきたいと送られてきた寄付とかですね、いろんな思いが一つ一つに込められていることを改めて感じつつ日々過ごされているということです。ご紹介します。エルピス会の方々です。本日の報告会のために九州から来ていただいてます。
 さて、その放映以来大きなうねりがありまして、我々のような小さな会がそのうねりの中に引き込まれ、どうしたらよいのかという状況が続いています。我々の会にも全国の皆さんの善意が届いていますので、それを野原さんにお渡ししたい。またせっかくの機会ですので、今週末野原さんはボリビアのほうに帰られてしまいますので、その前にぜひお話を聞きたいという声に応えたいとの思いもあり本日の会を開かせていただいております。
 我々の会も10年目にして、よちよち歩きでやってきたんですけれども、改めて目覚めるような機会を与えていただいたと思います。のんびりと学び舎を、学校を建てていればいいのではなく、いろんな人の思いを伝えて、現地で生かしていくというような責任感みたいなものを今感じています。
 そして、今日はすばらしいゲストをお迎えしています。ボリビア大使の安次嶺正勝氏です。まず、大使に一言ご挨拶をお願いします。

安次嶺正勝ボリビア大使:皆様こんばんは。今宵はたくさんの方々がお集まりいただきありがとうございます。私は皆様にボリビア政府の名において、ボリビアの国民として、また私個人といたしましても、野原さんのすばらしいお仕事に深く感謝の気持ちを述べたいと思います。
 野原さんはボリビアのコチャバンバというところで、貧しい、不自由な子どもたちに対して、崇高なお仕事を非常な困難をもって遂行なされています。苦難に満ちた子どもたちに対して、未来と希望をもって、子どもたちが価値ある存在として成長していくことを目指しているお仕事というのは非常にすばらしいことだと心から敬服しております。
 エルピス会の安藤さん、また学び舎づくりの永田さんにお会いでき、ボリビアの国民として奉仕的な活動をサポートしている皆様に深く感謝の念を述べたいと思います。日本とボリビアと一緒になって、今後とも野原さんの活動を支援し、この活動を発展させていきたいと思っています。ありがとうございました。
    
永田:大使、ありがとうございました。それでは、報告会に移りた
いと思います。
 改めて紹介させていただきます。ボリビア、コチャバンバから一時帰国しております野原昭子さんです。コチャバンバで障害者の生活の場としての聖マルティンの家を運営されています。そしてもう一方、高山和彦さんです。横浜を中心に社会福祉法人同愛会の理事長をされています。授産施設である「てらん広場」、「幸陽園」、「あすなろ作業所」、「リエゾン笠間」ほか作業所も複数運営されております。差別をしないで人間として付き合うこと、病院などから離反された人々をも受け入れ、生きる力を与える運営は全国的に評価されています。今日は高山さんのお話も聞けるということで、非常に感謝しています。よろしくお願いします。

野原昭子:皆様こんばんは。はじめまして。そして、ありがとうございます。かしこまって話すのは私に向いておりませんので、ざっくばらんに話させていただきます。よろしくお願いいたします。

●主役は子どもたち、そして皆さん
  あのテレビを見て感動なさったということを皆様から伺って、そう、スクリーンに写真が出ますのでゆっくり見ながら聞いてくださいね!…実はあのテレビ放映は、私を非常に憤慨させました。というのは、主役は私じゃないんです。主役は子どもなんです。あそこに映っている障害をもった子どもたちです。私じゃないんですよ。ところが私を主役にしたテレビ番組でしたので、そういう意味で憤慨です。ただ、この放映を通してたくさんの方たちの心を動かした。神様がその方法でやれと言われたのでしょう。たくさんの方たちの思いが、もう一つの別の主役を作ってくれたんです。それは皆さんです。私はただ動いているだけなんで簡単です。主役はもちろん、ボリビアに住んでいる子どもたちですけれども、それを運営しているのは皆さんです。それが言いたくて、今日ここに来てます。
 というのは、野原さんすごいわね~って皆さん言いますが、私は何にもやってないんですよ!誰のおかげでこれができているかというと皆さんのおかげです。皆さんの1円が、10円が、100円が、千円が、1万円が、あの子どもたちの毎日の生活ができるようにしてくださっているんですよ。ですから、皆さんなしに私の仕事はなーんの役にも立ちません。本当に。ただ、私もいつまでも日本にばっかりお世話になって、おんぶされないようにしなくっちゃいけないと思って、一生懸命になっていろいろ頑張ってはおります。

●この子たち、表情がすごくいいでしょ!
  この子たちを見てください。表情を見てください。ほんっとに嬉しい表情、本当にいい表情してますよね。障害というハンディもっていますけども、何で、ああいう“いい表情”ができるか。考えてみてください。それは、みんなから愛を受けているからです。ボリビアでは違うんですけど、アルゼンチンではハンディをもっている人たちを 「違った才能をもった人たち」 と呼ぶそうです。それがね、私は本当の言葉じゃないかと思うんですよ。障害をもってるんじゃないんですよ、違った才能をもってるんです。それを、彼らは私に教えてくれました。そして、そのように生きてます。
 私たちは、とかく、もっている少しの才能でさえも取り上げてしまうという危険を冒します。私がボリビアに行って、聖マルティンの家を始めて一番最初に出会ったのは、お尻に6ヶ所以上のこれぐらい大きな褥痩(じょくそう)のできてる青年でした。彼のところに3日に1回くらい出かけていって、傷の治療をしてあげてたんですね。その彼とだいぶ話ができるようになって、あるとき出掛けたいからちょっと手伝ってくれるか、あぁいいよーと車椅子に乗って、私が押しだしたんです。そしたら彼が私の手をターンと叩いたんです。「やめてくれ。」えぇっ…。「あんたはね、ボランティアをしてると思っているんだろ。私はね、あなたをボランティアだと思わない。そうじゃなくてあんたはね、僕たちの敵だ。」 と言ったんです。皆さんそれ聞いたらどう思います?えぇっ!って思うでしょう。私は一生懸命やっているのよ、って。治療にも週2回は来て、褥瘡の大きな傷をえぐって、治療してあげて。そして車椅子も押してあげて・・・。ところが彼にばっさり私の“あげて方針”は切り刻まれました。
 「あんたはボランティアじゃない、僕たちの毒だ」って。えぇっ…。何で?どうして?と言ったら、「私にはね、自尊心はあるんだよ。自分は人間だ。ただね、事故で歩けなくなったから仕方なしにこの形でしか動くことができなくなった。でも自分は上半身は丈夫だ。その自分の使える腕までもあんたは取るのか。私はあんたに車椅子を押してくれって頼んだか?頼まないことまでしないでくれ。できることまで取らないでくれ。自分にできる小さなことをさせてくれ!ボランティアっていうのはそういうことじゃないのか」と。
 その人のもってるものを伸ばすのがボランティアの姿勢じゃないか、と言われたわけです。その言葉を聞いたときに私はすっごく反省しました。そして考え直しました。だからそれを肝に銘じています。
 私は、彼らのもっている違った才能を引き出すために今のことをやってるんです。ですから、日本と違って、皆さんボリビアは貧しい国で、貧しい国でと言われるんですが、私に言わせれば日本のほうが精神的にはよほど貧しい国です。肉体的に、金銭的に貧しいのはどうにかなります。でも精神的に貧しいのは、本当に大変です。ですから彼らは非常に明るい顔をしている。なぜかというと、彼らはたくさんの愛を受けているんです。それを感じているんです。皆さんからいただくお金で勉強もできる、食べることもできる、っていう感謝する気持ちはわかっているんです。受ける素直さがあるんです。足りないものはいろいろたくさんあります。足りないんです。実際、足りない中でも彼らは、感謝する力をまだもっているんです。だから表情がすごくいいんです。
 それに、私は助けているんじゃなくて、彼らからエネルギーをもらってるんですよ。だから、「すごいですね、元気ですね」と言われても、それは元気ですよ。だって彼らが私にエネルギーをくれるから。たぶん、そのエネルギーの反射がテレビに現れていたんじゃないかと思います。

●神さまが生んでくださった
  私は本当は、テレビでこの人たちを映してほしかったんです。たくさんたくさん。でもテレビの中心が私だったので非常に憤慨しました。それでもその中に何かを受け取ってくださった方たちの善意がまた新しい歩みを作るための原動力になりますので、本当に神様のすることは、私の考えているようなちっぽけなことじゃなくて、大きなことを考えている。神様は、このちいさなグループが大きくなるようにたくさんの方たちを生んでくださったのかなと思います。
 というのは、去年この撮影があった時、私たちはまだ借家生活をしていました。9年間、借家生活を続けてました。ところがこのテレビというメディアの大きな力が、新しい家を買ってくださると言う方々が出るほどの大きな力を、爆発的な力をくださって、今年の1月8日に新しい家に住むことができるようになりました。それも、無料(ただ)で。その方が全額出してくださって買ってくださいました。ただその家は小さくて、150坪くらいしかありません。150坪!いいね~と日本の方だったら思うんですけどね。考えてみてください。普通の人たちが5人寝れるところでも、車椅子の人だったら2人しか入らないんですね。ベッド2つ入れて、車椅子が1台しか通らないんです。そういう窮屈な部屋が5つしかなかったんです。
 私は今19人子どもと一緒いますので、全員は入りません。しかたなしに畑のほうにも6人ぐらい、働いてもらいながら、住んでもらいながら、土いじりしてもらいながら、生活してもらってます(*野原さんは施設を建てる為に土地を買ったのですが、その土地に隣接して大規模下水処理場が予定されており、施設建設は断念せざるをえませんでした。現在その土地には、野菜畑や果樹の苗木が植えられ、動物も飼われており、子どもたちがハタライテいます。因みに全てが食用です―編集担当注)。大きい子どもたちはそっちのほうに行ってます。それで、どうしてももう少し大きな家だったらいいんだけれど、と考えていたら、隣の人が売って下さいました。その土地を買って、家を建てなきゃいけないということで今回帰ってきたんです。
 皆さんからいただいた金額を聞いてびっくりしました。それで土地を買って、家を建ててもちょうど足りるくらいの金額がこのテレビの影響で集まりました。皆さん本当にありがとうございました。本当に皆さんに拍手したいと思います。今皆さんの善意でできる家をまたいつか報告できることを楽しみにしています。エルピス会のHPや学び舎の方のHPなどに報告が入ってくると思いますので、見て下さったらと思います。
 一人ひとりの余裕なお金ではない、厳しい中のお金をたくさんいただいていることは、手紙やメールを読んでわかります。たくさんの方が、「自分の子どももそうなんです」、「自分もそうなんです、寝たきりなんです」という方々からの献金が本当に多かったんです。それで私はこれは絶対に無駄にしてはいけないという思いを強くしました。
 さっきも言いましたように、皆さんが主役です。私ではないんです。私はただ報告して、それを行動で示すだけです。でもその行動の原動力となっているのは、皆さんだということをお忘れにならずに、続けて私たちを支援してくださったら嬉しいなと思っています。それを伝えたくて、今回の集まりをお願いしました。

永田:ありがとうございました。野原さんのお話にあったように、いろんな出会いがテレビ放映の前、その後もあります。たまたまここに私たちは顔を合わせているという感じで、これも「縁」かなと、改めて思いました。
 それでは高山さん、野原さんのお話に対するコメントがあったらよろしくお願いいたします。

●私はぞうきん
 高山和彦同意愛会理事長:コメントなんて生意気なことは言えませんが(笑)、今お話を聞いてて、いやぁすごく感動しました!「主役は私ではない。」すばらしいなぁと。野原さんが “ぞうきんになる”って書いてありますよね(配布資料)。そこのところを、もう少しお話をしていただけたらと思います。ぞうきんになることと、主役は彼らだっていうこととがきっと結びついている気がするんですね。

野原:これは私が昔シスターだった、16歳のときの決心なんですよ。人々のぞうきんになろうという決心なんです。ぞうきんの主役は誰ですか?使う人なんですよ。私は使われるだけなんです。皆さんご存知の通り、ぞうきんっていうのは買ってきたばかりの布では作らないんです、普通は。役に立たなかったり役目が終わったもので作るんです。要するに私は役に立たない者なんです、本当に。学力もない、「どこの大学を出ましたか?」と聞かれてもいつも「大学は出てません。」家も近所では一番貧しくて、それこそ小学校のころからバイトしていましたよと話しています。
 ぞうきんは使う人の気持ちで、どうにでもされるんですよ。トイレにも使われるかと思えば、机を拭くのにも使われます。けれど、いい所には絶対に出てきません。ぞうきんの使命は人前に出てはいけないんです。ですからテレビに出たときに頭にきたんですよ。本当はぞうきんは隠されてるものなんです。だけれども、家の中では一番必要なもんじゃないですかね。女性の方はわかると思いますけれど、その役目ですね、私の今してる仕事も。

●福祉が行き届き過ぎている・・・・
 高山:すごく本質を衝いてると思うんです。僕らのケアの仕事っていうのは、僕ら自身が黒子にな
らないといけないわけでしょ。そういう意味で、ぞうきんって、あっ、すごい表現だなって思ったんです。先ほどの褥瘡の青年の中で、援助の本質の部分で魂の自立の話がありましたよね、これがすごいなって。魂の自立があって初めて、経済的社会的、さまざまな自立が成り立つと思うんです。日本のほうが貧しいってお話、もう少しお話していただけませんか。

農場にて 洗濯するエドウィン君 
ボランティアの神父さんと
       松下撮影 2008年4月 
野原:私のところに今職員が12人います。一緒に生活している子どもの数からみると少ないなぁと、思われるはずです。日本は、職員いっぱいいますよね。何人につき何人の職員がいないといけないと法律で定められていますよね。例えば、3人の障害をもっている方に対しては養護する方が1人はいないと
いけないんですよね。
 でも、私の2人の従兄弟が重度の障害をもっていて、施設に入っています。私が小学校のとき、従兄弟は10歳、7歳くらいで、歩く練習をさせられていました。それを思い出します。「できるんだから、歩けるんだから!!!」と職員に言われ10歩ほど歩いて私に見せていました。その彼らが今はもちろん歩けません。洗濯物もたためません。なぜか。それは職員がやるからなんです。職員が全部するんです。
 彼らは違った才能をもっているんです。職員は職員としての仕事としてするんです。それは職員自身がしなくちゃいけないからするんですよ。しかしできることまで職員が取っちゃうから、洗濯物もたためない手になってしまったんです。歩けてた子が、もう歩けません。それは、福祉が行き届き過ぎて、できるとこまで取り上げている所があるからではないかな、という私の勝手な判断ですけど。

高山:勝手な判断ではありません。僕らも、20年位前にひらがなで「じりつ」っていう考え方をしたんです。脳性麻痺やアルコール依存症の人たちの共同作業所を始めたときに、彼らがせめぎ合いあって、その中でやはり一番必要なのは魂の自立じゃないか、ここにおいてみんな同じなんだという話になったんです。それがないとね、自立なんて言ったって絵空事ですし、金の問題でもない。そこがポイントかなと思いますね。そういう意味で、日本の障害をもった人たちも、みんな自分たちの生きる意味を実感する、獲得するということで、仕事をする、このことにみんな挑戦しています。
 野原さんのところも、そういう意味での挑戦をしていると思うんですけれど、仕事とか働くっていうことをどういうふうに捉えていらっしゃるのか…。

●信頼関係があって初めて・・・・・
 野原(野原さんは当日朝から4時頃まで、エルピス会の2名と浅田さんと共に、珈琲工場の店長西山さんの案内で、市内の作業所めぐりをしました―編集担当注)私は今日いろいろな所を見させていただきましたが、仕事をしている人たちの多くは、重度でない方の仕事の場面が多かったと思います。たぶん、もっと時間があってたくさんの人と接することができたら、もっといろんな形の人たちの働いている姿が見えたんじゃないかなと思いますけれど。
 さっき言った、小さな者でも才能があることを、どうやって私たちが見つけるかっていうことですごく苦労していると思うんです。私もそうなんですけど、特に私の場合は整った設備とかがあるわけでないし、決まったものがあるわけじゃないから、一人ひとりに、この人に何ができるか、この人にはこれができる、というように考えていかなければなりません。それが私の役目です。
 例えばテレビに出たエドウィン君は畑仕事がすごく好きなんですよ。彼にとってはそれがもう生きがいなんです。そして、もう一日中でも土の上に座って鍬を動かしていますよ。そして一生懸命になって草を取っています。人参を収穫したとき、「これ僕たちが採ってきたんだぞぉ」って、それが彼にとっては自分が仕事をしてきたという喜びを伝える力なんです。
 また、「全然何もできない!」といっていた首から下は全然動かない彼女が、今は絵を描くようになりました。そしてその絵は300ドルで売れました。日本で300ドルといったらたった3万円ですけど、ボリビアでは価値は10倍くらいですから、30万くらいで売ったことになります。それくらいの絵を描いて、自分でそのお金で必要なものを買えるようになりました。ここまでくるのに6年かかりました。でも、そこを見つけてあげる、それが私たちの務めだと思うんです。いろんなこと私も考えてます。何をしたら家の収入になるかってことばっかり考えてますけど…

もうひとつは、この人に何ができるかってことですね。

高山:そこだと思うんですよね。

高山:この間ちょっとクレームがあってね。どういうことかというと、今の話に通じるんですけど、例えばA県の場合、障害者一人当たりに対して1300万~1500万ぐらいの税金が使われているんですね。そして、驚くことなんですけど、鍵をかけて暮らしをさせているんです。そうすると、25年間そこで暮らしてきた人たちは、今の話とまったく逆じゃないですか。先程あった、違った才能をもった人たちの存在そのものが、消されていく、奪われていって、結局四半世紀そういう暮らしをさせている。
 うちの利用者の方で、18年間精神病院の保護室に入ってた方がいるのです。保護室に入って出てくると他の患者の人に噛み付いたり、髪の毛引っ張ったり飛び蹴り入れたりするから、またすぐ保護室に戻される。でも院長が変わって、そのドクターは、うちの病院がこの人の才能を奪っている、つまり保護室に入れたり出したりすることが暴力を行うようにしているんじゃないか、と言って、病院でなくてうちの施設に移してきたんです。最初会ったときに、ドライバー持って職員襲ってくるんですよ。その青年が、実は今、昼間仕事をして、グループホームで暮らしているんです。僕がそのグループホームに彼がいるときに訪ねて行って、一緒にお風呂に入れてくれって言ったら、足を広げて入ってた自分のところを座りなおして空けて、僕のところを作ってくれたのね。そして髪の毛を洗って、シャンプーして背中洗って。自閉症の人だから、そういうことやられるのはあまり好きじゃないんだけれど、でも受け入れてくれて、脱衣所に言ったら、指に傷があって手を出してきて、カットバン貼ってくれって言うんですよ。あ、すごいなと。ドライバー持って襲ってきた青年が、仕事をするということの中で、自分の才能、自分自身に目覚めていく。

野原:それは、仕事をするというよりも、信頼ですよ。愛を感じるんですよ。この人が私を信じてくれてる、そしてこの人だったら自分の気持ちというか、自分のもっているものを出せるという、その信頼関係ができるから、それをするんですよね。

高山:関係性だからね。さっきのお話じゃないけど、花が咲くっていうのは咲く縁が集まって咲くっていいますよね。そんな関係だと思うんだよね。
 今19人の方と一緒に暮らしをしていると聞いたんですけど、この中(配布資料)で野原さんが 「ともに生きる彼らに使ってもらう幸せを毎日感じてはいますけど、私を何だと思っているの!」 って書いてありますよね。これってね、現場のね、本当に生の声だなって。19人の方と毎日暮らしてて、絶対に天使でいられるわけないんじゃないんですか。

●毎日天使ではいられない
 野原:そうなんですねぇ~。私さっきから私の子どもたちって言ってますよね。最近はもう孫ができて、二人目が今度できそうです。やはり家族ですね。私はその関係でずっと保ちたいんです。
 私の子どもたち、もう自分の子どもなんですよ。ペルーに20人子どもを産んだお父さんお母さんを知っていますけど、私19人ですからまだ足りませんけど、もう孫ができ始めましたから、20人はとっくに超すでしょうけど、実際私の家に来て出て行った子どもたちは80人くらいになります。そういう意味で、親子と同じです。
食器を洗います
朝6時になったら15歳の2人の子どもたちが朝食を作りだすんですけど、2人とも車椅子です。どっちか早く起きたほうが炊事場に入っていって、何か飲みものとパンだけですから簡単ですけど、飲むものを作ります。ココアだったりミルクだったり作ります。それから1日が始まります。もうワーワーギャーギャーですよ。「この子連れて行って~」 とか、さっき言ったように職員が多くないし、待ってられないですから、みんなでやらなきゃいけないでしょう。それなのに、8人くらい100%介護しないといけない子どもたちがいるんです。
 知的に障害がある子どもたちの中にはあんまり任せられない子どもたちもいます。例えば、4歳の子は自分のお人形さん感覚で子どもを抱っこするの。いらなくなったらぽっと捨てるんです。「おぉ」ってなります。歩けない子たちは誰かが車椅子に乗せて、押していってとなりますから、みんなして朝から晩まで、てんやわんやギャーギャー言ってます。前のように広い土地だったときには叫んでもわめいても周りに何も聞こえないような所だったんですけど、今度は小さい家ですから、もう私たちの大騒ぎが聞こえてると思います。もう天使じゃありません。おっかないお母ちゃんですよ。

●ケアの本質とは
 高山:境界例人格障害で、けっこう嫌味なことをいう女性と実は11ヶ月一緒に暮らしたことがあるんです。夏の暑い時に、彼女帰ってきて居て、そこに、とにかく職員会議が遅れたから私はまずお風呂に入りたいと言ったんです。彼女は 「高山さん、飯作ったから食べなさい。食べなさい食べなさいよ」と言うんです。僕は 「君は僕の奥さんじゃないんだから、しつこく言わないで、とにかくお風呂に入りたいから」 とお風呂に入ったんですよ。そしたら、ごそごそと「高山の野郎、せっかくこうやって私がご飯作ったのに」とそのご飯をゴミ箱に捨てているんです。僕がお風呂から出てきたら、ゴミ箱に捨てながら「あぁしまった」と言うのね。「高山さんごめんなさい。頭にきちゃったから、ご飯捨てちゃった」と言うのね。「あぁわかったよ。このお金でビール買ってきて。二人で飲もう。」そんなのがね、最初の出発。
 それから夜になると、12時から1時くらい、寝付いたなと思うと、襖ががらっと開いて、「高山さん、寝れません」と来るのね。若いときはむかっときたんですけど、年取ってくると、そのときは50過ぎてましたが、「そうだよな、人生つらいもんな、寂しいね」っていって癒し系のCDかけるんです。そうすると、僕の枕元に座ってごそごそしてるんですけど長くても10分くらい立つと、「おやすみなさい。」っていって自分の部屋に戻っていくんです。そんなのが、11ヶ月一緒に暮らしてて、40~50回くらいありました。そういう中で、「私を何だと思ってるの」って彼女が態度で示していること、そしてその意味が、すごいわかるんです。ケアの本質は、やる、やらされるという関係ではないですね。

野原:そうですね。

高山:そうではなくて、される、やるという権力関係を超えていく暮らしの在り方みたいなのがどうしたら生まれてくるのかなって、思うんです。

野原:私の場合は、夜の場合は特に小さい子どもが多いですから、会話というよりはオムツ換えから、おしっことりからそういうことに明け暮れます。起こされるのはしょっちゅうだし、一緒に寝てるとほとんど寝れませんね。だから3日に1回くらいは看護師に「お願い~今日は私のベッドに連れてこないで!」と言って、一晩だけゆっくり寝かせてもらいます。それでも、やっぱり習慣ですね、目が覚めてるんですよ。あるとき子どもが泣いてる声が聞こえて、部屋に入ってみたら看護師がしっかり寝てて、子どもだけ泣いている。「あんた何やってるの~」ってね。隣で寝てても、離れて寝てても聞こえるわけですから、実際はゆっくり寝てないと思いますけど、それでも、精神的に少し違いますね。

●愛の鞭使いの鬼ばばに
 高山:そうですよね。子どもたちとの関係なんですけど、日本の場合は今人権が強く言われていますが、そういう中で、社会性を身につけていくときに、結構鬼ばばというか(笑)、なるんですか?

野原:かなりですよ。私、日本に来て聞くニュースの一番は、いじめ、自殺。それと虐待ね。それを聞いていたら私はぜんぶに当てはまりますよ。でも、受け取る側が、それをいじめととるか、そうでないかは、やっぱり信頼関係でしょう。子どもたちがそれをいじめととってない。そうじゃなくて私の愛の鞭よ!という信頼感があればね。それはしつけも同じですよ。

高山:ぼくらがそんなこと言っちゃったら、たぶん明日の新聞の第三面にばちっと出ますね。

野原:だからそれを子どもが 「いじめられた」 という言葉で出すか、出さないか、その関係ですよ。実際に 「何で泥棒するの?」 とターンと叩きますよ。それで、子どもが 「ごめんなさーい。もうやらない」 と言って行動で示す。そうなったら、それもしつけのひとつじゃないですか。でも単に感情でやるのではなくて、その子のことを考えてるということがわかるようにちゃんとやりませんと。

高山:今のお話は、日本の中ではなかなか通じないですね。

野原:できないですね。そうですね。

高山:だからうちの新人研修のときに 「奇跡の人」 という映画を見せて、これは暴力か、教育か、なんなのかとやるわけです。

野原:私もあれと全く同じことをしましたよ。自閉症で7歳になるまで目が見えない子がいるんです。目が見えないですから、歩くことも知らなかった、食べることも知らなかった。その子に同じことをやりました。スプーンを持たせて、食べさせて、捨てる。また持たせて食べさせて、捨てて。その時のその子の叫びはそれこそ周り一帯に聞こえるように「やぁぁぁ食べたいーーー」、「食べなさい!そしたら!」。でも自分で食べたくないんですね、食べさせてくれないといけないわけなんです。それを30分間毎日やるんです。みんな捨てて、またみんな拾ってきて。それをやったら向こうが疲れて、仕方なしに食べるようになって、3ヶ月で食べられるようになりました。7歳になるまで一回も自分で食べたことがなかったのに。
 でもそれを日本でやりなさいといったら、この狭い日本ではできません。島に行ったらできるかもしれない(笑)。

●魂の自立
 高山:すごく重要なことだと思うんですね。確かに違った才能をもった人が才能を奪われている状態が、本当に自分に目覚めて、内面的な魂がぐっと動いてくる。しかしそういうものを、引き出してくる、あるいはそのことをきちんと受け止める、という定式化されてしまっていることがどっか嘘っぽいような感じがしてるんですよね、僕は。
 結局、今みたいな議論は本当は避けてはいけない問題でないかな。人というのはどうしたら自分になっていくのかってね、そこのところなんです。
 今横浜市内のグループホームで350人くらい暮らしているんです。すると、いろんな人たちがいるんですけど、ターミナルケアもやりました。末期がんになって治療が何にもできない、51歳になった女性の方なんですけど、千葉で売春をさせられていた。それで横浜に逃げてきて、僕らと一緒に暮らすようになったんです。肺がんになったんですけれど、彼女の人生考えたときに病院に入れるのやめよう。誰も身内がいない中で、やっぱり背中が痛いとか、肺がんですから咳き込むでしょ。そういうときに、手をさすってあげたり、背中をさすってあげたりしたいなって考えたんです。それで、ホスピスに入って、その後グループホームで皆と一緒に暮らすようになったんです。
 本当に良かったのが12月24日のクリスマスイブ。仲間がみんな彼女の部屋に集まってきて、クリスマスソング歌って、ケーキカットして、そして食べなさいと言うけど、もうモルヒネで意識が遠いんですね。でもなんか参加しているような感じで、みんながいろんな話をして、彼女と一晩クリスマスイブを過ごして、その翌朝5時に息を引き取ったんです。
 その彼女が、痛いって言うから僕らがさするでしょ。そうすると、「ありがとう。治ったらちゃんとお返しするからね」 と。必ずね、「ありがとう」 と 「ありがとう」 とね応えるんです。この人たちのもっている、“魂の自立”というのはすごいですよね。僕らはすごく彼らを下に見るようなところがあるけど、僕らよりもずっとね、高いところにいるんだなって。そんなことを体験したことがあるんです。

野原:…うちに今5歳かな、男の子がいるんです。目も見えないし、話すこともできないし、それこそ1歳で来たときに2kgしかなくてミイラのようでした。その子は本当に人間の目から見たら何にもできないんですよ。ところが私たち今みんな言うんですけど、この子の使命はなんだと思う?って。何にもできないんですよ。ほんとに、泣くことしか。その子は肺結核だったんです。だから結核の治療を1歳でさせられて、もう歯も全部抜けてしまって、一本も歯がないんです。
 その子が使命をもっているということを看護師が気がついて、「この子すごい使命を受けて神様から贈られてきたのよ」 と言うんです。何かというと、その子を外に出すと、出掛けた先で必ず誰かがその子に近づいてきて涙を流して、その人が変わってしまうんです。誰か必ず一人。彼は何もできないんだけども、それでも、何かを訴えるものを、使命をもって生まれてきたんだということを私たちは自覚しないといけないんじゃないか。だれも、だれもですよ、健康であってもなくても、年をとっていても若くてもそうなんですけど、みんな何かの使命を神様からもらって生きてくるんですよ。そして、さっきおっしゃったように、死ぬときに必ずね、「ありがとう」 と言って亡くなって
いくんですよ。
 私もがんの末期の人を家で看ました。すごく苦しんで、売春もしてたし、泥棒もしてたし、大変な性格で、人から嫌われるような人でしたけど、その人は最期に 「ありがとう」 って。そう言えるようになったらやっぱり神様のもとにかえっていくんですね。亡くなった時の顔は本当に穏やかになっていました。私たち必ず何かの使命をもらって生きてきている、ということをみんな自覚したら、「何だろう、自分の使命は」 と思って生きるようになるから、失望することないんじゃないですか、それこそ希望でね…と思うんですよ。私は偉そうなこと言ってますけど(笑)。

●存在することの意味
 高山:そうですよね。本当は施設なんてないほうがいいんですが、とりあえずね、やむを得ずやっているんですけど、身体障害者の方の養護施設をやっているんですね。遷延性意識障害、一般的には植物人間て言われている人たち11名を受け入れて一昨年始めたんです。
 そのうちの一人は高校の教師をしていて、手術中にミューズが脳にいって意識が止まっちゃった。それから18年間病院をたらい回しにされて、伊豆のほうの施設に入れられていたんです。18年間ずっと四肢拘束。両手両足を縛られて、ベッドの中で暮らしていた。なぜ縛るかというと、食事ができないから胃に穴を開けて、そこから頸管で食事を採るんですが、その管を取っちゃうし、それからベッドから落ちちゃうということで縛ってるんです。
 僕らが受け入れたら、絶対縛るのやめようって話し合っていたんです。うちの職員ばかだから、18年前に彼女が一番好きだった音楽を部屋いっぱいに流して迎え入れたんです。案の定暴れるのね。職員がベッドの上にのって寝かしながら、「あなたの叫びは、この18年間の怒りだとか悲しみだから」 なんて言いながら、ぐっと抱きしめてあげてね、そんなことを5昼夜やったら、5日目の日に赤ん坊みたいになって、ぐっと握り締めていた手を開いて熟睡したんです。それからずっと四肢拘束していなくて、実は今、知的障害の人たちと一緒にグループホームで暮らしています。
 そして去年の暮れに19年ぶりに自宅に帰ったんです。その前の晩は寝ないで徹夜したのね。家に帰るってわかってるんだよなあって思ってたんですよ。そして、お父さんとお母さんが彼女を膝枕して、19年ぶりに親子3人で暮れの30日を過ごしたんです。回復したの。だから障害をもってる、もっていないにかかわらず、存在するっていう意味みたいなものを本当にもっと深く考えていく必要があるのかなって改めて思ったんです。

●やはり信頼が・・・・
 野原:同じケースを私も体験しました。ある人が交通事故で頭の半分くらいめちゃくちゃにされて、意識不明でね、それこそ治療器具を外してしまうからということでずっと縛られて、暴れまくっていた人がいたんです。ある日本から来た看護師が 「かわいそ~。この人、繋ぐ必要ないよ。」ってことで、彼女がその人を信頼して、全部ほどいてしまったんですよ。そしたら、暴れなくなった。
 その人はね、意識の中で知っていたんですよ、彼女の言葉と彼女の行動を。今でも、言いますよ。私の一番の恩人だって。私を信頼してくれたって。だから、治ることができたって。あの縛られたままだったら、ずっと気違い扱いされて、何もできないままだったって。
 それが、その信頼が、他の看護師たちの目では全然わかっていない、狂った人と思っていたその人が、狂ってたんじゃないんですよ。理解してもらえなくて、悔しくって、それを表現できなくて暴れていたんですよね。ところが、自分を解ってくれる人が現れたと思った途端に、その人と接するときには必ずおとなしくなるんですよ。
 でも例えば私の一緒に寝てる子なんかは、私が食べさせたら、首に手をもってくるんですよね。邪魔なんですよ、こうやってもってこられるから、「邪魔だから食べさせられないからちょっと待っててね」って言うんですけど、私にするんですよ。それは愛情の印なんですね。私にしかしないんですよ。私が来るとわかるからニコニコするんですって。足音聞いただけでニコニコ。そういうのを私たち感じないじゃないですか。健康な私たちにはそこまでの繊細な感覚がないんですよ。彼らはそれをもっているんですよ。もしね、そういう方たちと接する方がいましたら、それを考えてほしい。意識がないんじゃない、狂ってるんじゃない、私たちがただ解ってあげてないだけなんです。
              <<Coffee Break>>

永田:それでは後半に移りたいと思います。さきほどのお二人のお話では、TV放映ではなかなか聞けない、TV放送を超えた日常の非常にリアルな生活の様子から、魂の自立って何なんだろうという哲学的な問い、障害を持つ持たないにかかわらず存在するって何だろうといった、すごく大切な問いかけをいただき、いい時間を過ごさせていただいたと思います。もう少し、高山さんのほうから野原さんに尋ねたいことをお願いします。

高山:野原さんは、この人たちと付き合われて、存在の深いところから命みたいなものを見分けていらっしゃるのかな、と本当に感銘を受けました。野原さんが5年先10年先、どんな夢をもたれて、何を、どんな価値を創り出そうとしてるのかな?ってそんなお話を聞かせしていただければ。

●夢は一緒につくりたい
 野原:確かに 「この子たちが私の夢です」 って言ってましたねぇ。私もびっくりしました。自分でわかって言ったんじゃないと思いましたけど(笑)夢ですか?…というか私は今まで始めたのもそうなんですけど、私がしたくてしたわけじゃないんですよ。そして、今、しつつあることも、私が望んでしているわけではないっていうか、変な言い方だと 「したくないのにしてるんですか」 ってなりますからね。いや、それこそ使ってもらいたいとは思ってたんですけど、私がこういうことをするということは考えてませんでした。
 そして、必然的にこういう形、短期入所施設ということで始めたんですけれど、ところが今は、6人ぐらいはもう身寄りのない子どもたちです。どうしましょうか、短期入所施設なんですけど、ということになって、今年から「短期」を消してくださいって事務員さんに言って、今年から短期じゃなくなりました。私の気持ちだけは短気ですけど(笑)。
 だから私何をさせられるんだろうと思っています。一番最初から話さないといけないけれど、私には宗教というものがあります、信仰というものがあります。私はカトリックのシスターでしたから、いや、辞めましたってテレビには出てますけど、やり続けてます。生き方を変えてるわけではないんですよ。私の心の中の宗教はもち続けます。そしてその中で動いていってます。私のというより、今していることは動き続けます。私の根底にあるのは宗教ですから、神様が私に何を望むのかっていうのがいつも根底にあります。だから、はじめ、施設なんか絶対しないって決めてたのに、やってるんですよ。だから今も固執して、「私のしてるのは施設じゃありません、家です。私のファミリーです。」って言ってます。でも、短期だって言ってたのに、もう長期もしなくちゃいけなくなった状態です。
 じゃぁこれからどうなるのって、夢といわれてもそんなこと考えてません。神様、私に何をさせたいんだろうって、させたかったらどうぞって、あなたよろしくねって。お金のほうもよろしく、家のほうもよろしく、って言ってますから、ずーっと今まで、お金のほうも家のほうも、いいように動いてきて、今からどうなるんでしょうね。もしかしたら年をとってからもその人たちと一緒にいないといけなくなって、老人ホームになっていくのかな。それも私が一番最初の入所者になるんじゃないですか。そういう形になっていくんじゃないですか。でも、夢とかそういうのは・・この子たち、さっきTVに出ていたときのように、この子たちどうなっていくんだろう、私と一緒にどうなっていくんだろう、夢一緒につくっていくんじゃないんでしょうか。自分では創れません。

高山:やっぱりすごいなぁ。人生を共に歩いていくみたいなところで、してあげるとかそんなことじゃない、そういうことを強く感じます。僕の方の趣味で一つ聞いてもいいですか?

野原:はい。

高山:ボリビアの歴史ってすごい歴史なわけじゃないですか。 “天使ガブリエル”という名前をもった修道士が18世紀に、先住民の方の悲惨な状態に対して立ち上がりますよね。それを引き継いできたのがいわゆる解放の神学だと思うんです。信仰もっている方にこういう聞き方して申し訳ないんですけど、解放の神学というのは、個人的にどういうふうに思われてるのかなって。

●解放の神学は地面から出てきた叫び
 野原:さっき言いましたように、難しいことになりますと私ちんぷんかんぷんでわかりませんというかね、「解放の神学」の良さ悪さとかいうよりも、あれはそれこそ地面から出てきた叫びがあの神学になったのであって、だから日本とか、それからヨーロッパの方も、もちろんローマの方からも「その神学は異端だ」みたいな感じで最初はすごく抑えられたんです。私がしてるのもそうなんだけど、こう、地面から必要で出てきた考えが、ああいう形で出てきて・・どう説明したらいいんでしょうか。私は難しいことはできませんので、聞かないでください(笑)。

高山:いや、最高の定義だと思うんですね。この“地面から湧き出てくる”ね。このことが、実は僕、日本から消えてるような気がするんです。さっき障害もってた人の問題とか、それから我々の存在の在り方そのものもそうだと思うんだけど、この地面からごぉっと湧いてくるようなものっていうのは、今日本では、嘘っぽいっていうようにしか考えられなくなって来ているそれではダメなんですよね、うん。今日は本当にありがとうございました。

野原:あの、私はですね、酉年の人間なんですよ。酉年というとね、鶏年でね、突ついているとよく人に言われて、だからやっぱり酉年かと言われるんですけど、「私酉年じゃなくて、コンドル年よ」って。ふふふふ(笑)最後の言葉にさせてください。

永田:ありがとうございました。せっかくの機会ですので、皆さ
んからのご質問も受けたいと思います。

大塚:貴重なお話ありがとうございました。さっき野原さんのお話の中で、絵を描くようになった女の子のお話を聞いたんですけれども、彼女が最初に 「何もできない!」 と言っていた、そこから絵を描くようになるまでに、何が彼女をそうさせたんでしょうか。

●彼女が絵を描けるようになるまでには・・・・
 野原:それでは“虐待”の細かいところを話させていただきます(笑)。 彼女は交通事故で首から下が何にも動かなく、何もできませんでした。6年間放置されたままでしたから手も上がりませんでした。彼女が家に来た時、世話をできるのは私1人だったんですよ。子どもたちは炊事婦以外に、10人くらいいたんです。私1人ですよ。その人は、抱えることからベッドに降ろすことから、食べさせることから排泄から、全部全部全部、100%しないといけなかったんですよ。
 それでもリハビリして、少しずつ少しずつ手が動くようになったときに、「私はあなたに何かしてもらわないと困る。私1人なのよね。協力してよね」 と言ったんです。「はい、一生懸命がんばる」 と言うんです。「そしたらね、鉛筆持つ練習して」って言ったら、一生懸命鉛筆持つ練習して、やっとかすかに鉛筆も持てるようになった時に 「私の秘書になって」 って言ったんですよ。彼女は「えぇぇ!秘書なんて!」 と言って。「いやぁ、できるよ。だって一日座ってられるんだから。秘書になってくれない?」 と言って。「何するの?」って。「何でもいいからとにかく、私のしたことを1つでも2つでもいいから、1日にしたことを書いて。あなた2時間かかって“昭子出かけた”って書けばいいんだから」…「はい、やってみます」。
 それから始まったの。“昭子出かけた”というのを午前中いっぱい書いてましたよ。その次に、“電話、○○”って書く。「何でもいいんだから。昭子どこに行ってどこに行ってって書かなくていい。“昭子買い物、病院”それだけでいいんだから」って。それからそれが彼女の仕事になりました。
 そして今度はそれがだいぶできるようになって、字の太さが太くなったの。そしたら今度は、「もう1人で食べてくれない?」って言ったの。「できない」「いや、できないって前も言ったけど、書けるようになったじゃない。鉛筆持てるじゃん。スプーンも持てるようになるはずよ」 「できない」 「できるから」って言って今度は使い捨てのスプーンを買ってきて、それを持たせて、手を上にあげる練習をずーっとやって、ある時もうこれはできると思ったときにね、「今日は一人で食べて頂戴」って。「できない。」 「いつものことであなたできないって言って、いっつもできてるじゃない。1回だけでいいからスプーンを口に持っていって」 って言ったの。「1回だけでいいから。そしたら後は手伝うから。」 それをするのに1時間かかりました。みんな食べさせないで待たせて。みんなも一緒に 「がんばれ~がんばれ~」って言って。そしたらみんな 「昭子、かわいそぉ~やめさせて、もういいよー、30分も耐えてもできな
い!」「できる」「できない」「できる!」。
 そしたら彼女が今度は意地になったんですよ。最初はできないって構えてたんですけど、昭子が絶対 「できる」 って言って手伝いしないから、震える手で必死になって、1時間経って本当に口までスプーンがいったんですよ。みーんなで手を叩いて泣いて喜んで、私も一緒に泣いて喜んで、「良かったぁ!!できたじゃない!!」 それから全部食べさせて、みんな冷めたスープ食べました、一緒に。そして、次の日、30分でスプーンが口にいったんですよ。それからですよ。それですよ、それ。 だから、こっちも諦めないの、できるっていうことを100%信頼してるから。信頼してるからできるようになる。
 日本でやったら虐待ですよね、1時間もごはんを食べさせないんですよ(笑)。 …今では普通のスプーンですよ。何のスプーンでも食べられるようになって。スプーンが動かせるようになったら、「手動くようになったね~!!じゃぁ何か描いてみない?字も書けるようになったし。」 ということで、それが絵になったの。もちろん絵の先生もつけて。口で筆を持ちかえて。
だから口の周りはいつも絵の具だらけ。

永田:ありがとうございます。他にご質問あったらどうぞ。

田口: 私は今授産施設というところで働いてますけども、各部門に分かれて職員が配属されていまして、私たちなりに意思疎通をし、問題を共有して利用者さんに対応を支援を行いたいというのがあるんですが、実際「私はこう思う」とか「私はこっちがいいと思う」とかなかなか統制が取れないんです。私自身も「こういうふうにやりたいなぁ」というのがあるんですね。でも実際に、みんなはそう思っていないとか、必要性を感じないとかあるんですね。ご一緒に働かれてるスタッフの方と野原さんとの意思の疎通、それから子どもさんとの意思の疎通とか共有みたいなものとかは、どういうふうに取り組まれていますか。

●自信をもって
 野原:ありますね、そういうのね。特に勉強してきている方たちは、自分のメンツもありますよね。ですから、自分の考えていることを表したいという、意欲というよりも、メンツがいっぱいあるんです。私はそれを見分けます。私がしてる家ですから、私がみんなに振り回されてどうしますかね。
 私なりの方針というものもあって、受け入れられない違った意見も出てきます。それをどういう風に私の中で咀嚼していって、そしてみんなで合わせていくかというのは、そこの施設長というか責任者である方のやり方にかかりますね。「それだめよ~、だめよ~」ってやっていたら職員ばらばらで子ども可哀想ね。だって職員がばらばらだと、子どもたちにそれが全部行きますよ。当たられるでしょ。
 幸か不幸か私の家には職員があまりいないので、逆にそういうことはあんまりないかもしれないです。でも、上に立つ人がみんなの意見を丸めて、上手にそれを使っていけるかにかかると思います。
 でも、みなさん、自信をもって関わったらいいんじゃないですかねぇ。上からどう言われるかとかじゃなくて。自分が愛してたら通じる、子どもたちにも大人であっても、通じます。自分で自信もたないと。勉強したのはこうだった、そんなんじゃないんですよ。そんなの措いた方がいいんです。

永田:せっかくですのでエルピス会の安藤さんお願いします。

エルピス会理事 安藤:全国からお便りをいただく中で、畑の方はどうなっているのか、耕運機を送りたいとかいろんな話があって、みなさんすごく農作業に興味持たれたお便りが多かったので、ちょっとそのことをご紹介いただけたら。

日干しレンガ
野原:畑はですね、本当は家を建てるために買ったんですけど、建築禁止地域だということが後からわかったので、できませんでした。そこに出ている塀は(ビデオを見て)全部、学び舎の高橋慎一郎青年が協力してくれて造った日干し煉瓦です。日干し煉瓦で建物の壁を造るつもりで造ったのですが、そこは建てられないので仕方なしに塀にしました。というのは、8匹の野犬に、家の動物、15匹のうさぎと食用ネズミが食べられてしまいましたので。
2007年撮影 農 場
  今それは別の意味で、農作業をしています。ひとつは私たちの自立のため。作物作って、食べて、残ったものは売ってという形にする。日本人の方が果物の木を90本寄付してくださって、それを来年くらいから何らかの形で収穫できそうですので、楽しみです。もうひとつは売るという目的。豚がおります。今10匹子豚を産んで2匹はもう売りました。あと6匹、私が帰って売って、2匹は丸焼きにして食べようと思ってます(笑)。そしてまた種つけさせて、次の子どもをまた…そういう目的で、豚、ガチョウ、ウサギ、食用ネズミ、それから鶏ですかね、そういうのを飼育して、私たちのためにも少しの収入と、それから自分たちのお腹も満たしたいと思いましてがんばってるところです。
 耕運機とかそういうたくさんの嬉しい援助の声はいただくんですけど、方法がなくて今ちょっと困ってます。何かいい方法があったら教えてください。電気がいる機械類なんかは私たちの所では使えませんので…。
 でも、がんばってます。石だらけですけど、楽しくじゃないですが、時間がいっぱいありますし、時間をいっぱいかけて、少しずつ良くなって、10年後に来たら「わぁ~あの畑が畑になったね!」 と言われる日が来ると思いますので、その頃見に来てください。

永田:ありがとうございます。 一言、エルピス会のこともお話ください。

安藤:今日は本当にありがとうございました。私たちのグループ「エルピス会」 は野原昭子さんがボリビアで 「聖マルティンの家」 をお始めになるとき、みなさんが支えるということで、兄弟・親戚・友達が集まって、本当に小さなお金で始めた会です。
 3年前に彼女が、住む家がなくなりそうということで、急きょ日本に帰ってきて、「助けてください」と全国を歩かれたときに支援が少し広がりました。そのことで皆さんからお金をお預かりするということで公にしなければいけないと、急いでNPO法人にし、その時から私は正式にお手伝いするようになりました。本当に私たちみたいな、おじさんおばさんが集まってるものですから、ホームページをどうやって立ち上げたらいいのかもわかりません。何とか立ち上げたところに、TBSの方から連絡がありまして、実は取材対象にしたい、HPのほうもみせていただいた、法人でもあるし、ぜひ取材対象にしたいという話を頂きました。
 私たちは本当に何の計画もなく、昭子さんもハッキリとした計画もなくお始めになっていたんです。私たちは、ただ支えなきゃならないという必要性だけで進めたんですね。
 エルピス会の住所を彼女のお姉さんのお宅に置いたんですけど、そこの電話番号をTBSさんがお教えになったんですね。そうしましたらテレビの放映中から電話が鳴りやまなかったんです。翌日、私たちは彼女と交替したんですが、もうトイレにも行けない。電話が鳴りやまない。電話を受けたら、皆さんそれぞれの事情をおもちになってる方がお電話くださっていろいろとお話して下さいます。「とても苦しい中で昭子さんを見た。子どもさんを亡くしてずっと外に出れなかった。テレビをぽっとつけたら昭子さんの顔見たら急に元気が出た。この人支えよう、そう思ったんです。」 とか、もう電話聞いていて私たちがもらい泣きをする。こんなにいろんな人たちがお電話をくださったということに私たちはすごく感激しました。毎月千円ずつとか3千円ずつとかお金を送ってくださる方。私たちが助けたかどうか、わざわざ北九州まで出向いて来てくださる方もおられました。すごくいい人が全国にたくさんいらっしゃるんだということに、逆に私たち自身が目が覚めるような思いをいたしました。日本人ていいな、日本の国に生まれて良かったなと思っています。
 こんな調子ですからHPも時々壊したりとかしてしまって、なかなか書きかえもへたくそで、上手くできないんです。でも皆さんに電話だとかメールで 「どうしたの、HP動かないわよ」 とか「アクセスできないわよ」ってくると、ごめんなさいって、本当にど素人が集まったおじさんおばさんばっかりなもんですから失敗ばっかりでと謝りながら、でも皆さん見捨てずに私たちをずっと支援し続けて下さっています。
 昭子さんに出会ったことで、生きている喜び、生きているということは神様がくださった意味があることだと、私たちは本当に感じています。今日は学び舎さんに招いていただいたことに感謝いたします。ありがとうございました。

永田:ありがとうございました。本当に、昭子さんを通してみんな豊かになっていってるんだと、そういう風に感じます。
 今エルピス会の安藤さんのお話の中にもありましたけど、学び舎づくりの方でも今までに体験したことのないような寄付をたくさん頂きまして、しっかり野原さんにお渡ししなくちゃいけないと、ずっとお預かりしてます。会を代表してではなくて、日本の、野原さんを支援したいと思っている方々を代表する形で今日はしっかりとお渡しできたらなと思います。
 これまでにも、ニュースレター等を通して野原さんのこと紹介してきたので数十万円単位でお渡ししてきたり、向こうで学び舎を作っているうちの職人が腹巻きにドル札を入れて海を渡り、おわたししたり、、失礼なやり方で細々と寄付を続けてきたんですが、放映があってから本日の時点でお預かりしてるのが約170万円です。1万6千125ドル。プラス72円。1円たりとも残さずに、この場を借りてお渡ししたいと思います。これからもがんばってください。
 他にいろいろな寄付が届いています。第一三共株式会社から野原さんがどうしても施設で薬が必要ということで声を伝えられたら、すぐに寄付として薬が届いてます。キャバロン錠という…

野原:てんかんの薬です。

永田:これもしっかりお渡ししたいと思います。また、本日は都筑ロータリークラブの方々も野原さんに寄付をさせて頂きたいということで、お見えになっておられます。こういう形でいろんな気持が全国から届いてます。(了)


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