2004年10月20日水曜日

4棟目完成までのみち     落合裕梨

リャイタニ村の風景
リャイタニ村を望む
4棟目となる学び舎の建設地は、3棟目のコチ・バケリーヤ村よりもさらに標高の高い3900M前後の台地にあります。アンデス山脈の中なのですが、山の中腹という感じではなく、頂上近くに位置し、勾配は緩やかで大地は開けています。丸みを帯びた大きな石がくっつき合って丘らしきものを創り、幻想的な風景をかもしだしています。村から村へと歩いて移動しているとき、風も、音も、家も、人影もなく、ふと 「この世の果てがあるとしたらこんなところだろうか、」 と思ってしまいました。ちゃんとここで生活している村の人々には大変失礼な話ですが、正直そう感じずにはいられませんでした。


言葉の壁
 2003年7月から地域住民と施設の具体的な使用法、プロジェクトの進め方(建設への参加方法)などについて話し合いを始めました。この地域は、日常ケチュア語で話されており、スペイン語は町によくでかける男性や若者など一部の人しか話せない状態で、村の人々との意思疎通には言語の壁を感じずにはいられませんでした。
集会にて話し合い
話し合いは、すべてケチュア語で行われるため、彼らが何を話し合っているのか、あの長老らしき人が、あのおばちゃんが何を言っているのか?どういう流れで結論までたどり着いたのか?など、私にはさっぱり解らないのです。自分の伝えられたいことはどうにか伝えられても、相手からのメッセージが受け止められません。スペイン語もまだ日常会話レベルにしか達しない程度の私には、ケチュア語は宇宙の言葉のように感じてしまいます。単語が区切りにくく、また辞書を使っても、もともと表音文字ではないため、単語がなかなか探せません。

 リャイタニ村まではオルーロという割と大きな都市から、トラックバスで行きます。その荷台に乗っていると、それはそれは日本人はめずらしいので、いつも誰かに声をかけられます。ケチュア語などを教えてもらいながら4時間ばかりの道のりを行くのですが、ある日、リャイタニ村のもっと先にある村のおじさんに言われました。「君は、ケチュア語も話せなくって、よくNGOでプロジェクトのコーディネートなんてできるね!」私もその通りだと思っていたので、さらにショックを覚えるのでした。
 資金的な理由で専従の通訳はつけられませんでしたが、大事な話合いには、ケチュア語の通訳に同行してもらい、なんとか彼等とコミュニケーションを図っていきました。建設契約後には、ケチュア語を話す現場監督を雇い、彼が中心になって住民と話し合いを進めていきました。

6村の関係
またまた話し合い
話し合いの過程で、問題になったのは、6村がどう建設に係わるかということでした。これは彼ら6村同士で話し合ってもらうことでしたが、出来上がったものを6村全体が使うつもりならば、何かしらの形で6村がこのプロジェクトの過程に係わって欲しいと伝えました。しかし、なかなかそれぞれの村の意見が合いません。どうも村同士が敵対とまではいかないまでも、かなり分裂している感じです。建設地から2時間ばかりかかる村は、「あんまり使わないだろうからあまり働かない」 とか、「それぞれの村に作るべきだ」 とか、「リャイタニ村に建つのだからリャイタニ村だけが作業に参加する」 とか・・・。
 結局全体の50%をリャイタニ村が、残りの5村でそれぞれ10%ずつ人手を出すことになりました。

住民の建設作業
 建設作業が始まりました。途中1週間程度人がこなかった時がありました。それ以外はほぼ毎日、住民がシフトを組んで4人~10人程度、建設作業に参加していました。
なかには、建設技術を身に付けたいと、ほぼ毎日来て、親方についてまわっていた男の子もいました。
 私が現場で建設作業に参加する時は、お母さん達や女の子達も参加しました。彼女達の力強さにはいつも驚かされます。日干しレンガづくりワークショップの時、私はレンガ型枠に土をいれてから、型枠を引き抜くことができなかったのですが、おばちゃん達はふんばってできちゃうのです。

今後の運営方法を話し合った集会にて
 1月末に、今後の学び舎の具体的な運営方法について話し合いました。
 6村の住民 〈男性74人、女性29人、子供12人〉、教育長、この地域で活動しているユニセフのオルタナティブ教育担当者と、ボリーバル地域のオルタナティブ教育指導員が出席しました。他の地域からも村長レベルの人が数人出席し、この地域に新しくできる学び舎に対しての関心の高さが伺えました。(もちろんこの後、わたしたちの村にも是非!と言われるのですが・・・)
 今後どう使っていくかについては、すでに住民達が希望しているCETHAという技術専門高校卒業資格がもらえるプログラムと6村の集会、リャイタニ村の識字教育以外に、住民自身あまり使い方に思いをはせてはいないようでした。7月、8月にも同じ議題で話し合いましたが、まだ具体的な計画を住民自らが立てる状況にはないようで、「どういう使いかたがあるか教えてくれ。」 と言われてしまいました。
 教育長やユニセフは、「生涯教育や職業訓練などにも使える。この場所を拠点にオルタナティブ教育分野に力を入れていこう。」 と言っていました。私からは、「これからユニセフや教育長や他NGOとの協力のものとに、自分たちの生活のさらなる向上のために必要なことで、この場所でできることから、実際に自分たちで行動に移していってもらいたい。」と伝えました。
 この日、各村の学び舎運営委員が選ばれ、運営委員会が発足。これから彼等がどう利用していくのか、見守りたいと思います。

盛大に行われた引渡し式
 2月6日に建物の引渡し契約式を行いました。まだ、室内以外は少し工事が残っていましたが、2月中旬から室内の使用を始めるに当り、施設の所有者を住民とするため引渡し式を行ったのです。
 引渡し式の日、郡長、教育長、通訳の出合さんとリャイタニ村を訪ねると、みごとな準備がされていて驚かされました。青い空に映える色とりどりのアワヨ(彼等の伝統的な織物)とおもちゃなどで飾られたアーチが入口までつづいています。

 各村が競うようにサンポーニャ、太鼓、ケーナなどで音楽を奏でます。
 リャイタニ村の小学生のお父さんがわざわざオルーロからスーツを着てやってきて、式次第のもとに契約式を司会進行。途中には、子供達のダンス、若い女性のコーラスが入ります。ここはお花が咲かない寒い地域ですが、この日はオルーロから買ってきたであろう色とりどりのお花で首輪が作られ、それを私たちにかけてくれました。
 そして式のあとは、羊の肉のお料理。ジュースやビールもふるまわれました。夜中まで踊りとダンスと続きました。(この地域は普段の料理はジャガイモやジャガイモを干したチューニョばかりで、肉も食べることは少ないので、羊のお肉がメインのお料理はかなりのごちそうです。)
 この日の盛り上がりのように、これからもずっと愛着を持って、この学び舎が彼等の生活の一部で活躍することを願いました。

 最後に
 この10ヵ月のボリビアでのプロジェクトの調整は、自分が未熟なために、プロジェクトの進行を急いでしまったり、解らないことだらけで、会の皆様にご迷惑をおかけしました。また、日本からフォローをしてくださりありがとうございました。
 私の説明が下手で、私がボリビアで感じたこと、ボリビア人から学んだこと、地域の情報、他NGOの活動状況などを正確に皆様にお知らせすることがあまりできませんでした。反省することしきりです。
 ボリビアでのはじめての長期の生活のためか、プロジェクトの進行は、身体的にも精神的にも疲れることが多かったのですが、ボリヴィアのお姉さんのように親身になって支えてくれた通訳の出合美樹さん、ホームステイ先の日系2世のマリーナさんにお礼申し上げます。ありがとうございました。