2006年1月15日日曜日

建築での「空間」と「場」について    薩田英男   

 学び舎は「場」をつくる会なのかそれとも建築の「空間」をつくる会なのか。よく会のなかでソフト、ハード、ハコモノなどの議論とともに立場や専門の違いから口角あわをとばすテーマである。会の目的には「場」=集まり・活動・空間など多くの意味を含むということで事なきを得ている。


 一般に「場」は人々が集い活動する所ということで容易に理解できるが、「空間」とはなにかと問われるとどうもこころもとない。さらに両者の違いは何か、建築との関係はどうなるのかなどなど・・・ますますコンガラガッてしまう。もともと「空間」という日本語はなく外来語からの造語であることからして判りづらいし、疎まれる言葉である。市民権を得ていないけれども勝手に使っているからなんとなく理解した気になっている。だから「建築は空間である」などとみんなの前で声高にいうと専門家の自己満足だとか、芸術的でわからないなどの反発を受けることが多々ある。
 南極の探検家が絶壁の氷壁に光が差したのをみて突然大都会が出現したような気がしたといっていた。またデ・キリコの絵のように人がいる街角に形而上的な空虚さを感じる。それが空間であるというとさらに難しいだろうか?自分なりには空間とは実利を超えてひとのこころに降り注ぐ見えない光のようなもので、ひとはそれを感じとれる生き物ではないだろうか?と理解している。
 哲学的な命題に答えるのは簡単ではないが、空間を「気持ちの良い空間」といいかえただけで随分身近なことになるだろうか。空間の良し悪しが建築の質を決め、ひいてはその質が場に活性化をもたらすというような考え方である。たとえば学び舎が教育の用をなすためだけの建物であるならば、雨風凌げれば何でもよいと言えば何でもよい。しかしどうしたら佇んでいて気持ちの良い空間になるのか。あるいはみんなでいてたのしい空間になるのか。そのためには照度、室温、構造、衛生、利便性などの技術的な解決だけではなく、光、風、季節や一日の時の移ろい、静けさ、のびやかさなど気持ちに働きかける空間の豊かさが必要である。人々が落ち着きと安らぎを感じるために空間がはたす役割は大きい。場と空間の両者が調和し化身したものが建築ではないだろうか。豊かな建築とはそうしたものである。
 建築をハコモノなどと呼ぶのは空間の恩恵を受けたことのない貧しい気持ちが言わせているのではと勘ぐってしまう。学び舎に集う場には気持ちのよい空間が不可分である。学び舎づくりはボリビアの人々とともに現地の素材を生かし楚々としていながらも豊かな建築をつくるための活動である。この三位一体な動きがわれわれの会の持ち味であり、今後も修羅場ではなく酒乱場で大いに悩み議論していきたい。 (さつた・ひでお)