2006年1月15日日曜日

「場づくり」へ――ハードとソフトの垣根を越えて  代表 永田佳之

 ボリビアでは街中でも標高4千メートルの高地でも教会を見かける。たまに立ち寄り中に入って感じるのは、天井へと引かれるような垂直の力である。教会の尖塔がとんがっているせいか、十字架が天上を指しているせいか、磔刑のキリスト像が目線より上にあるせいか、垂直の力が強く働いている空間である。
 こうした空間とはまったく異質だが、同じくキャンドルがあり、歌声が響き、笑顔の絶えない清らかな場に、ボリビアで巡り会ったことがある。そこは、垂直の力は感じないが、身体を包んでくれるような水平のつながりを感じさせる不思議な空間であった。
 5年ほど前になるだろうか、コチャバンバ市校外のフィールドで教育調査をしていたときのことである。
ある婦人グループが村の小部屋で識字教室を開いていた。「ここは皆さんにとってどんな場なのですか?」と、ありきたりの質問をしてみたところ、30代の女性が突然になみだしながら語り出した。要約すれば、彼女は長年、夫から虐待され、死んだ方がましなほどの扱いを受けてきた。しかし、地元のNGOによって識字教室が営まれるようになり、教室に行くたびにクラスメイトに励まされ、力づけられたという。識字教室は彼女にとって守られる場であり、暴力から逃れる場であり、ホッと一息つける場であった。彼女だけではない。そこに参加していた一人ひとりの婦人にとって、識字教室とは単に字の読み書きを覚えるための空間ではなく、その人なりに特別な意味をもつ場であったのだ。特別な場であるからであろうか、彼女たちは手作りの造花などを飾り、小奇麗で、ゆったりとした空間にしていた。
 この識字教室と出会ったとき、貧困層の人々が暮らすアンデス高地や近代化の弊害に曝されやすい都市近郊の村々に、水平のつながりを感じられるような場、人々が手と手をつなぎ合えるような場がもっとあればよいと思った。もちろん教会にも人と人とのつながりがあり、励まし合いもある。しかし、識字教室には、社会の低層におかれた人々がみずから育む空間で、心置きなくつながることのできる柔らかな空気がある。ハード(建物)とかソフト(教室運営や学習内容)とかの言葉では割り切れない「場」の魅力がそこにあるのだ。
 〈学び舎〉づくりの国際協力とは建設のプロとしてハード面で支援をすることか、建物を有効に使ってもらうためにソフト面での支援も含むのか――そんな議論を重ねて6年にもなるが、〈学び舎〉を4棟造り、「ふり返り」の作業を経て出てきた言葉が「場づくり」の支援であった。場をつくるのは人であるが、一時的な救済も含めて人をつくるのも場なのかもしれない。本当の〈学び舎〉づくりとは、ソフトもハードも内に包んだ、当事者にとってかけがえのない「場づくり」なのであろう――このような想いを今は共有し始めている。
 さて、この「ふり返り」の期間をそろそろ終えて、次の一歩を踏み出したい、とわたしたちは考えている。今年4月のスタディツアーの一行が訪れたコチャバンバ市街の障がい者施設が学び舎を必要としているので、そのお手伝いの可能性を具体的に検討することになった。障がい者の方にとっての「場」の意味をじっくりと考えながら、ふたたび歩んでみたい。また同時に、市民参加を重視する現地NGOとの協働で住民参加型のプログラムづくりも模索しており、こちらも急がず先方と対話を重ねていこうと考えている。これらの〈学び舎〉が、住民にとって「特別な意味をもつ場」となっていくのかどうか、そのへんを心しながら、活動をつづけていきたい。 本号では「場」について当会と関係の深い方々に所感を寄せてもらった。多様な、しかし大切な何かを共有した「場」について考えていただければと思う。