(山城)
2003年9月15日月曜日
コラム ボリビア 沖縄村学校の初期
ボリビア国東部,サンタクルス州に沖縄農業移民の第一陣(1954年)が入植し始めてから10年程経った時期、移住地では、どの家庭でも、子どもが多く生まれ、兄弟5~6人は普通であった。第一沖縄移住地では、カトリック教会とメトジスタ教会(プロテスタント)が主体となった小・中校制学校が2校あった。カトリック校ではアメリカ人の神父さん、日本から来たシスターさん、メトジスタ校では日本から来た牧師先生夫婦がいらして生徒は99%(250人はいたと記憶する)ウチナンチュ-。日本の国語と算数教科書が使用され、スペイン語は外国語科目のようだった。男子生徒同士の喧嘩は日常茶飯で番長格の者が仕切って、決められたルールあり、大事には至らない程度で収まり、一番のアトラクションだった。上級生の間ではウチナーグチ(沖縄の言葉)が主流だった。基礎教育の中でスペイン語が本格的に取り入れられたのは、1968年に、ボリビア文部省から教師が派遣されるようになってからである。その頃は、日本語、ウチナーグチ、スペイン語、どれもこれも中途半端だったような気がする。しかし、そのような環境があったからこそ、現在、スペイン語を流暢に話せ、日本語、ウチナーグチもある程度話せるのではないかと思う。