建築の存在の力を信じている建築馬鹿の小生としては建築をみんなでつくるというのは最高のひととひとの知恵をあつめた「ソフト」なのではないのかなと思っています。そうしてできた建築は累々にわたり誇りとなるように思います。識字教育のための器をつくるというのではあまりにも現代的な機能主義に落ちてしまうのではないでしょうか。
識字教室は一次的な目的であり「彼らのあつまれる場があること。その場が彼らの力でできたこと。それを修理しながら累々に伝えることで彼らの自尊と自立になる。」そのためには建築は美しくあってほしいと思います。(ちょっと誤解が生じそうですが)建築家の端くれとしてそうした彼らが自慢できて長く愛しく使ってもらえる美しい建物を援助できたらと思って参加したのを思い出します。
現代社会がお金にすべてを還元してしまうこと。そのための分業とスペシャリストに頼らざるを得ない状況が問題なのではと思います。
また高度に専門家化してしまった現代建築を「ハード」と言われてしまうのもそうした点ではないのでしょうか?ただものづくりに携わっているものとしては、建築をハードハードと言うけれど職人さんに代表されるようにまだ我々はものとの謙虚な対話があるだけましなのではとも思います。
ボランティアが専門性をもちはじめた時点でソフトが「ハード」にシフトした瞬間なのではないでしょうか?ひととひとのゆるやかな総体としての関係がソフトだとすると現代の状況は先程いったように経済のもとに分業化し専門性をもってしまったことで「ハード」な社会が形成されてしまったように思います(ちょっといいすぎかもね)。
そうした意味でもわれわれの会はユニークだなと思います。けっこうみんな専門性が高い連中があつまりまたその仕事に関連したボランティアをしているわけです。間違えればすぐに「ハード」の状況に陥りやすいし1人の人間の原則につねに立ち返ることで大いなる「ソフト」にもなるのではないでしょうか?教育と建築という違うジャンルの専門馬鹿があつまって忌憚無くディスカスできるそんな雰囲気は会の宝のように思います。
(薩田 英男)